聖書のメッセージ(2021年3月28日)
今日は枝の主日です。聖パウロはイエスが歩んだ道を、イエスが地上にお生まれになる前、地上での暮らし、昇天後とで描いています。聖パウロは、イエスが誰かというよりは、イエスが私たちのために何をしたか、どのように神から報いを受けたかについて書いています。聖パウロは、イエスの主としてお立ちになられた理由を、イエスの謙遜さ、貧しさ、死に至るまでの従順のゆえとしています。聖パウロによると、イエスの歩んだ道は、ただ見るだけではなく、模範とするべき道です。キリスト論はただ研究するだけではなく、実際に体験するべきものです。すべてのキリスト者は、自分自身を「空(から)」にして、謙遜のうちに隣人のために働き、一見最もひどい状況にあってもそこに神の望みを見つけながら、自分の人生において、イエスの歩んだ道を実現させるべきです。もともと私たちは、私たちの歩む道をイエスのそれに合わせることができるはずです。聖パウロは、主を、従うべき模範として初代のキリスト者たちに紹介しています。イエスの姿は、私たちすべての人のためのよいヒントになるに違いありません。
(フィリピ2章6~11節からのメッセージです。)
ロジェ神父
<フィリピ2章6~11節>
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
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